知らない人に声をかけるというのは、自分で言うのも何なのだがとてもとても勇気のいることだ。やってみると、よく分かる。
街で、知らない人に声をかけてみて欲しい。
一体、その人とどのくらい話せるだろう?
通りすがりの人や偶然に隣に座った人に声をかけてみて欲しい。
一体、どこまで話が膨らんだり深まったりするだろう?
増して、知らない人に声をかけるところから
親密な間柄になったり親しくなったりするには、
一体、どんな交流が繰り広げられないと起きないのか?
知らない人に声をかけるということは、どういうこと?
やってみると、とてもよく分かる。
勇気に加えて、自尊心がなくてはやれないこと。
勇気、自尊心に加えて死を通過した人がやること。
勇気、自尊心、死を通過した人に加えて、どこどこまでも拡がりたくて走りたくて上げたくて仕方がない状態になっていること。
知らない人に声をかけるということは、どういうこと?
普通の勇気ではやれない。やり続けることが出来ない。
だって、勇気に加えて、自尊心があって、死を通過した経験があってどこどこまでも拡がりたくて走りたくて上げたくて仕方がない状態にまでなっているからこそ、やれること。
それが、知らない人に声をかけるということ。
普通じゃ出来ないこと。
多くの場合は、
無視されたり、軽視されたり、
バカにされたり、侮られたり、
同じ目線で観てくれる人は、
そうそういないんです。
立ち居地、
立場、
最初から、そこに上下関係っぽい様な雰囲気や印象が降り注ぐ。一歩間違えれば、まるで自分が媚びへつらう人間に成り代わっていて、例えはよくないかも知れないが自分が身も心も奴隷の身分になってしまっているかの様な、そんな人間に成り代わってしまう。
降り注ぐエネルギー、
場の雰囲気、
周りからの目線や空気感、
ありとあらゆるものが、まるで自分の敵みたいに思えてきそうな・・・それが、知らない人に声をかけるということの、外部環境による初期設定の様なもの。
勇気だけでは足りない。
外部環境による初期設定は、想いの他、激しい逆風と冷たい雨・・・歩く道は行けども行けども氷の大陸。生命にとっては過酷な環境の、まるで氷河期の様な状態。氷河期を通過しようとするに等しいこと、それが知らない人に声をかける。
無視に次ぐ無視。
軽視に次ぐ軽視。
それでも声をかけるか。
知らない人に声をかけるか。
それをやってのけてこそ、氷河期を通過する。
感動氷河期を、通過する。
氷河期を突破した僕たちの祖先が、農業革命を切り開いて力強く生き残り、人間の人間らしさを地球に報告することが出来た様に、
感動氷河期を突破する現代人1人ひとりは、未来から見たら全く新しい文明を切り開く革命的存在へと成り代わっていることと想う。
知らない人に声をかけるとは、どういうこと?
感動氷河期を通過しようとする人の一歩一歩。
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