大勢の人と出会ってはいても、中々出会うことがないという経験はないだろうか?
知らない人に声をかけていると、そういうことに多く遭遇する。知らない人に声をかけているのは、とても大勢の人と出会うもの。声をかけるに至った出会いもあれば、声をかけずとも、意識下で何とか出会おうとしていたり、無意識での会話が為されていたりすることも多い。
そうでしょう?
声をかけるという行為に出るまでにも、思いの中で、キモチとして、声にはならずとも出会おうとすることがある。そんな沢山の想いやキモチが集まって圧縮されて始めて声となって声をかける。
だから、実際に声をかけないまでも、非常に沢山の出会いがある。声をかける出会いにも、ピンからキリまであって、それが実る場合もあれば、実らないことが圧倒的に多い。
ただ、実らない場合が圧倒的に多いからといって、それは実ることにはなっていないのかというとそうではない。
多くの失敗に支えられて、
多くの別れに恵まれて、
初めて、たった一つの感動に出会う。
しかもその感動は、迸る様が美しく、抵抗なくどこどこまでも伝わっていく。たった一つの感動が、その他の多くの感動を生み出し続けていく。そんなたった一つの感動は、普通にしていては到底出会うことができない。
多くの失敗を前にして、
多くの別れに恵まれて、
幾多の悔しさを経験し、
泣きたくなるほどの辛さを真っ向から浴び続ける最中、
突如として、それはやってくる。
余りに一瞬過ぎるタイミングだから、普通は逃してしまうのだ。しかし、知らない人に声をかけていると、そのタイミングを手にする。繊細になる。
今日、ある企画に顔を出してきた。
沢山の人がいたのだが、本当にゆっくりと話すことは中々できないものだ。心行くまで話せるような環境というのは、そうそうあるものではない。
来ている人は、皆それぞれ何かしらを求めて参加しに来ているのだろう。一見すると楽しい現場だが、時代の暗さや社会の不透明さから逃れたくて流れてきている印象を感じずにはいられない。
人間、本当はもっともっとスゴイのに。
日本は、もっともっとスゴイのに。
小さくまとまろうとする習慣。
自分でも気付かないほど瞬間的な条件反射。
新しい出会いを探しに来て、
可能性を広げに来て、
自分なんて無くなると同時に、
新しく生まれ変わりたくて、
そんな想いを抱えながら出てきているのに・・・
いつもと同じ動きをやってしまう哀しさ・・・
人間、そんなもんじゃないだろう!
宣言したい。
人間は、素晴らしい存在だ。
何がなくとも、充分に満たされている。
可能性なんて、無限に広がっている。
絶対的に、尊厳そのもので生きれる存在。
何に比べられることがなく、
何からも依存されることがない。
絶対的な尊厳そのもので生きるものだ。
人間は素晴らしい。
日本は美しい。
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